ぱーふるの、うちへようこそ。

ゆるっと、ふわっと、すきなことを発信します。暮らしのメモや思ったこと、Jazzなどの音楽たちを真ん中において見つめた日々を綴ります。

「マタハラ」と子供の「しつけ」は別角度から論じる問題。

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「マタハラ」この言葉を耳にし始めたのは
ここ1,2年のことです。

世間ではもっと早くに話題になり問題視されていたのかもしれません。
セクシャルハラスメントパワーハラスメントとともに
3大ハラスメントと呼ばれていることでも
一気に世間に認知されたと思います。

3大ハラスメントのうち、セクハラ、パワハラは裁判沙汰になったり
日常会話でも
「それ、セクハラですよ~」
「今のはパワハラっていわれそう」
などと周囲とやりとりができるようになっているので
ご年配の方々にも広く認知されていると
感じています。

「マタハラ」は、マタニティーハラスメントの略語です。
職場で妊娠している人や出産を控えた人
あるいは出産をして職場に復帰した人に対して行われる
嫌がらせのことです。

しかし最近は、「マタハラ」を職場に限定せずに
広く日常生活全般における行為をも
対象にしているように見受けられます。

 

公共交通機関で妊婦が優先席に座っていると
執拗に席を譲れと強要する。
エレベーターを待っているベビーカーを押した女性に
あきらかに余裕があるにもかかわらず
無理だと言って同乗させない。

こういったことはほんの一例ですが
目にするときはあります。

信じられないと目を疑うのですが、事実です。
信じたくない嫌がらせが日常を闊歩しているのです。

もしこのような行為までもを「マタハラ」と定義するのであれば
職場を飛び出して日常生活に対象を拡大しただけで
「マタハラ」に該当するということができるのでしょう。

あるテレビ番組で、子供のしつけに関することでも
「マタハラ」に該当すると捉えた意見がありました。

子供が泣いているのを冷たい目で見られた。
食事処で子供がぐずったら冷ややかな態度を取られた。
こういったことは、「マタハラ」なのでしょうか。

わたしは「マタハラ」には該当しないと思います。
厳密に言って、親のしつけの問題です。

多く見られた意見のほとんどは
公共の場での出来事を述べていました。
電車の中や大型ショッピングセンター、ファミリーレストランなど。
このような場所は公の場なのです。
決して自宅ではありません。

その点から述べると自宅を一歩出た時点で
すでにもうそこは「公共の場」なのです。
いつもの通勤通学路然り、公園やマンションの共同空間然り。

ですからそのような場において
周囲からの視線や態度には意味があるのです。
子供が泣いていたのに親は何の措置も取らなかった。
子供がぐずっても親は特に何もしなかった。
もちろん、必死にあやして機嫌を回復させようとしたり
いったん外に出て気持ちを落ち着かせたりする
努力をなさっている親御さんは大勢いらっしゃいます。

それでも理不尽な態度を取られたり
理解を得ることができなかったりする場合もあるでしょう。
その時は嘆いていいと思います。

ただ、特に何もしなかったのに
理不尽なことをされたと口にするのは
やめていただきたい、と思うのです。

また泣いてるよ~もう注意するの疲れた~
そう話している方を見かけます。
見るとまだベビーカーですやすやと眠っている赤ちゃんと
幼稚園に通っているくらいの年齢のお子さんが
側にいました。

子育ての苦労は経験しないとわからない、
そう言われると子育て未経験のものにとっては
耳の痛いことなのですが
また泣いているから放っておく、ということは
子育て放棄に繋がる可能性があるのではないでしょうか。

なぜ泣くのか、なぜぐずるのか、
子供のなぜを解明しないことには
いつまでたっても解決しません。
そしてまた公共の場で周囲から冷たいと感じる
視線を受けてしまうのです。

忙しくてそんな時間あるわけないでしょう。
そうかもしれません。
けれど、子供にとっては案外、親にかまってもらえないことや
自分を見てくれていないと感じる寂しさが
原因となっていることは多いものです。

親ができること、すべきことは
子供のなぜを一緒に解明すること。
子供に公共の場がどういうものであるのかを教えること。
ではないでしょうか。

お友達みんなで仲良く使うおもちゃを
譲り合って順番を決めて使う工夫をするように
公共の場はみんなが心地よく過ごす場所であると
教えることは、親の責任です。

巷では、マタニティーマークがあまり活用されていないとか。
マークをつけることが怖いという意見があるそうです。
マタニティーマークをつけた女性を
偉そうにしているからとか
なんでも優先してもらえると思っているとか
そんな目で見る人は、偏見であるということを
きっと認識できていないのです。

まだお腹が膨らんでいない女性で
マークをつけていた人にバスで席を譲ろうと問いかけたとき
やんわりと断られた経験があります。
その日の体調や都合で
座りたかったり、座るまでもなかったりするということは
往々にして生じるものです。

すぐ降りる状況下で座ってしまうと
今度は立ち上がるのが困難になる場合があると
友人は経験談を語っていました。

そもそもマタニティーマークの本来の意味を知らない方は
大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
先ほどのバスの件でわたしは
女性がマークをつけていなければ
妊婦さんであるということは知りえませんでした。

それほど妊娠初期は見た目で判断することができず
緊急時には他に判断するものがない限り
妊娠しているということを伝えることが困難なのです。

マタニティーマークに関しては様々な意見があるようですが
見ただけで不快になる、といった女性からの意見には
驚きました。

同性なのにどうして?と思う反面
もしかして妊娠にまつわるツライ想いがあるのかもしれないと
推測しました。

ですが、自分が悲しいからといって
その悔しさや恨みをぶつけることは
お門違いです。

お門違いを平然と続けていると
そこからもっと自分がかなしくなるのです。

「マタハラ」は、いわれのない差別であって、嫌がらせです。
ですが、子供への親の無関心は虐待です。
「しつけ」は親の責任です。
周囲に注意されて「ほら、おばちゃんに叱られるよ」
なとど、自らの監督不行き届きを責任転嫁することは
親という職務の放棄です。

どこに線引きをして本来の意味を理解するかということは
非常に重要です。
なにもかもひとくくりにして
本当に見つめなければならないことを
見えにくくするのは、現代社会の特徴です。

「マタハラ」と子供の「しつけ」に関することは
別の角度から考えていくべきことだと思います。
共通する「子供」のために。

「マタハラ」が横行する世の中は恐ろしいです。
もし、女性が妊娠をしなければ
日本人は滅びてしまうでしょう。
様々な人種が共存している地球で
日本人だけがいなくなってしまうことは
非常に嘆かわしく、寂しいことです。

子供を授かり、産み、育てていく、この一連の有り方を
日本全体で考え、きちんと向き合っていかないと
欠落した社会が未来に待っていると思います。

では、さいなら。